「朝の読書」1万校への道のり
400万人の児童・生徒が毎朝、学校で読書を楽しむ
朝の読書推進協議会事務局長 佐川二亮
- 『朝の読書』の奇跡
- 東京都葛飾区立上平井小学校。朝8時30分のチャイムとともに校庭や廊下で遊んでいた子どもたちが教室に吸い込まれて行く。今までおしゃべりで喧騒としていた校舎が静寂に包まれ、校庭の樹々で鳴く小鳥の声が聞こえてくる。教室では児童と先生が一緒に本を読んでいる。一般的に小学校の低学年では読み聞かせを実施しているところが多いが、『朝の読書』が定着しているこの学校では1年生でも絵本や児童書の単行本を黙読をしている。2年生で分厚い『ハリー・ポッター』に挑戦している児童もいる。同校が『朝の読書』を導入するには大きな理由があった。以前、同校では教師への反抗、いじめ、器物破損、授業の不成立・・・
など学校崩壊に近い状況にあった。地域から非難のまなざしを感じながらも、当時の校長と教師たちは毎日討議を重ねて善後策を探った。たまたま教師の一人が『朝の読書が奇跡を生んだ』(高文研刊)を読んで感動したことを述べたことがきっかけとなり、子どもたちに豊かな心を育むために読書指導を一から考え直すことにした。同書を全教師が読破し、藁をもつかむ思いで『朝の読書』に取り組んだ。
- 効果が現れるには時間がかかったが、奇跡は3年目に現れた。読書習慣が定着して子供たちに生活や心の落ち着きが現れてきた。いじめや教師への反抗、不登校がなくなり、子供たちの表情が生き生きと明るくなった。校長と教師たちが一致団結して読書の力を信じた結果、学校を見事に再生させることに成功した。『朝の読書』によって、同校の読書活動は学校と家庭、そして地域との協力連携へと広がった。
- 『朝の読書』誕生の背景
- 『朝の読書』運動は1988年に千葉県・船橋学園女子高等学校(現・東葉高等学校)で、二人の教師の提唱と実践で始まった。発端は、生徒たちの心の荒れや生活態度の乱れにあった。当時同校で社会科を指導していた林公(はやし・ひろし)教諭は、早朝まだ薄暗い5時前から校舎の内外を隅から隅まで歩き回った。建物から備品のチェック、校内の清掃から全校生徒の机の痛みなどを点検するのが、日課の一つであった。修理道具を携帯し、汚れた壁があればペンキで塗り替え、痛んだ机や備品があれば修理をしていた。ある日、生徒の机を点検していた時、「バカヤロー 死んでしまえ」という落書きをみつけ、生徒たちの心の荒廃の深刻さに胸が痛む思いがした。そして多くの教師たちも授業やクラス運営に悩んでいるのを知った。「もう話し合いのレベルでは生徒の心をつかめない。生徒の心を開き、生徒の心を動かすためには、自ら主体的に学ぶ姿勢をつくる方法しかない」。林教諭は生徒をいかに能動的にするか、発想の転換に気づいたのである。
- ちょうどその頃、林教諭は1冊の本と出会った。ジム・トレリース著『読み聞かせ―この素晴らしい世界』(高文研刊)という本だった。その本は読み聞かせの教育的効果と楽しさについて説いたもので、林教諭は巻末に収められていたマクラッケン夫妻の『「黙読の時間」のすすめ』に注目した。「読むことは、技能である。そしてすべての技能と同じく読む力<技能>は使えば使うだけ上達する。使わなければ、その分下手になる」。林教諭はこの「黙読の時間」の原理に、自分たちの試行錯誤の結果のすべてが言い尽くされていると思った。すぐにでも自分の学校で実践するために新たな理論を構築した。本を読むなら、朝のさわやかな時間帯に実行する。時間も10分程度なら取りやすいし子どもたちも我慢できる。林教諭は自由と公平を保証し、競争と評価を排除するために「みんなでやる」「毎日やる」「好きな本でよい」「ただ読むだけ」を4原則とした。
- 林教諭は実践に向けての行動に移ったが、当時、教師と生徒の全員が一斉に読書するということが理解されず、『朝の読書』は職員会議で暗礁に乗り上げた形になった。なかなか学校の意見がまとまらない中、2年4組を担任していた大塚笑子(おおつか・えみこ)教諭が自分のクラスで実践に踏み切った。大塚教諭は体育担当の先生で、中学・高校と陸上競技でならし、三種競技では国内4位の記録を持つ。東京女子体育大学で「暁の超特急」と呼ばれた故・吉岡隆徳氏の指導を受けながら、将来のオリンピックを目指していた。大塚教諭は以前から読書指導を実施してその効果を知っていた。大塚学級の生徒たちは初日から全員が本を読み出した。大塚教諭の実践を知った林教諭は、連日同僚たちを大塚学級に連れてきて生徒たちの『朝の読書』を見せた。その光景を見た同僚たちから反対を唱える者はいなくなった。
- たった二人で始めた運動
- 『朝の読書』によって、船橋学園女子高校の生徒たちにどのような変化が生じたのか。「本が読めない子が読めるようになった」「遅刻が減り、授業にスムーズに入れるようになった」「集中力がつき、言語能力が伸びた」「生活のスタイルが変わり落ち着きが出てきた」「他人への思いやりの気持ちが出て、豊かな人間関係が深まった」「自信と誇りが持てるようになった」「教師と生徒、家族との会話が増えた」等、想像を超える効果が現れた。二人はこの成果を自分たちの学校の試みだけにせず、他の学校にも知らせるべきだと思った。毎月給料が入ると大量のハガキや切手を購入し、全国の見知らぬ学校へ手紙を書き始めた。作業は3年、5年、7年と経過していったが反応はほとんどなかった。大塚教諭は、毎夜、家事が済んだ後に宛名書きと格闘した。時には内職をしているようで、わびしい気持ちを抱くこともあったが、全国の子供たちのためにという教師として当たり前の使命感だけがその作業を続けさせた。
- 1995年、鳥取県の今井書店が米子市に「本の学校」を設立した。ドイツにある本の学校をモデルに、日本の出版業界人の育成と地域の生涯学習振興を主旨に建設したものだった。代表の永井伸和氏は書店の経営者であるが、長年、読書を軸にした市民運動に取り組んでいた。永井氏は本の学校を設立した記念事業として、同年から5年間「本の学校大山緑陰シンポジウム」を開催することにした。その第1回目のシンポジウムの図書館分科会に、林教諭が一人のパネラーとして招聘された。そこで出版流通会社(株)トーハンとの出会いになった。トーハンは林教諭と大塚教諭に『朝の読書』の応援を申し出、運動は組織的に動き出すことになった。
- 当時、『朝の読書』の実践校は100校ほどであったが、林・大塚両教諭は休日になると、北海道から沖縄まで手弁当で普及活動に走り回った。全国の教師たちと『朝の読書』を熱っぽく語りながら一人一人と同志を増やして行った。実践校が急激に増え始めたのは
'96年以降になるが、その当時はいじめや不登校、少年犯罪や学級崩壊の増加などが大きな社会問題となり、学校現場でも危機管理に迫われていた世相もあった。『朝の読書』の効果は児童・生徒の心の変化のみならず、管理者には学校経営にも有効であることが注目され出してきたのである。
- 同年11月、私たちは江藤淳氏と林教諭の『朝の読書』をめぐる対談を企画し、朝日新聞に掲載した。この広告企画が『朝の読書』を広く社会に知らしめる動機づけにもなった。私たちはこの運動をさらに強化させるため1997年7月、林教諭を代表にして任意団体「朝の読書推進協議会」(現理事長大塚笑子)を発足させ、事務局をトーハン広報室に置いた。協議会を発足させて、まず私たちが取り組む課題は『朝の読書』を正しく普及させるため、教師や教育関係者を対象にした研修大会を開催することであった。一部の地域で大会を開いても効果は期待できないと判断した私たちは、「本の学校」で試みたシンポジウムを「全国縦断朝の読書交流会」と称し、年間5回程度全国都道府県単位で開催して行くことにした。この交流会を全国各地で開催して行く中で、私たちは多くの教師たちが現場で悩み、それらの教師たちを元気づけているのが『朝の読書』だということも知った。『朝の読書』は児童・生徒たちの変化を求めるだけのものでなく、共に読書をすることで教師自身にも意識の変化をもたらしていたのである。
- 学校で「本」不足が深刻化
- 『朝の読書』が全学校に普及するのは時間の問題とも思われるが、ここに来て大きな問題も輩出してきている。『朝の読書』で子どもたちはどんどん本を読むようになったが、学校で「本が不足している」「読む本がない」「図書予算が少ない」といった声が増えてきたことである。今、国を挙げて子供の読書推進に取り組もうとしているのに、過去3年間、小・中学校図書館の蔵書数は年々減少傾向にある。文科省の調査でも現在の小・中学校図書館の蔵書数は国が定めた基準を4千万冊以上も下回っており、その対策として今年度から5年間で650億円(年間130億円)の学校図書館図書整備費が予算措置された。ところがこの予算措置は地方交付税のため余り機能していなのが現状であり、今年度予算化した自治体は35%に止まっている。学校図書館図書整備費の予算措置は国の施策なのだから、学校は堂々と市町村議会や行政に対して、国の施策通り予算計上するよう申請あるいは請願運動を起こして良いのである。
- 昨年12月に「子どもの読書活動推進法」が制定・施行され、この8月には同法律を具体的に推進するための「子どもの読書活動の推進に関する基本計画」が閣議決定された。この基本計画の中でも『急速に進んでいる学校現場の「朝の読書」を一層推進する』と『朝の読書』の奨励が盛り込まれ、読書が人づくり、国づくりにいかに重要な意義を持つことが、国家レベルで論じられるようになった。
※お断り:当資料は(社)読書推進運動協議会発行「読書推進運動」第418号(2002.9.15発行)掲載の文章を一部修正したものです。